あさぎり町中部ふるさと会

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熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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続 ふるさと探訪

2018年6月 2日

続ふるさと探訪10 肥薩線(2)    

・球磨川橋梁は斜橋
図5の1)は、球磨川第一橋梁である。その架橋場所の地形が同図の2)である。球磨川橋梁架橋工事中の珍しい写真がWikimediaに出ていたので図5の3)に転載させていただいた。気づいているようで気づいていないことであるが、球磨川橋梁は、第一も第二も川の流れに対して直交して架かっていないことである。川を真横に渡るように架けると短い距離ですみ、建設材料も、経費も少なくてすむのであるが、この橋梁は斜めにかかっている斜橋である。球磨川第一橋梁のある場所は、肥薩線の鎌瀬駅の近くで、八代市坂本町川嶽である。八代方面からだと、鎌瀬駅を出るとすぐ渡る鉄橋(橋梁)である。この橋梁がどれくらい斜めに架かっているか図5の2)や地図から測定してみると、川の流れに対して約60度(左斜角)である。なぜこんな不経済的な架け方をしたのか、筆者は長い間、引っかかっていた点である。
このように斜めに横切る橋を「斜橋」といい、直角に横切る橋を「直橋」と呼ぶそうである。斜橋の斜角を表わすのに,川岸からみた場合,右に振れているものを右斜角θ度,左に振れているものを左斜角θ度という。球磨川第一橋梁は、
橋のたもとに立ってみた場合、橋梁は左に振れているので「左斜角60度」とい
うことになる。
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図5 1)球磨川第一橋梁、2)架橋場所(八代市坂本町川嶽)と地形、3)建設工事中の写真1908年:明治41年  (ウィキペディア、JR九州)
実は、図6の球磨川第二橋梁も「斜橋」になっている。この橋梁は、球磨郡球磨村の三ヶ浦地区、肥薩線の那良口駅と渡駅の間にある。この橋梁は219号線側の右岸から橋を見た場合、右に振れている。その傾きは約60度であるから「右斜角60度」の斜橋ということになる。
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図6 球磨川第二橋梁とその場所・地形  (ウィキペディア、JR州)

前置きが長くなったが本題に移ろう。球磨川橋梁は、なぜ不経済的な斜橋になったのかである。橋梁工学がご専門の元名城大学教授久保全弘先生の意見はこうである。「道路や鉄道の線形は直線部と曲線部の組み合わせで設計されています。一般道の昔の橋は川に直交して架けていましたが、近代の橋は走行性を考えて道路線形に合わせて斜橋または曲線橋とします。高速道路では、走行性のほか、直線部だけではドライバーの眠気を誘うので、曲線部を意図的におりまぜています。地方の一般道では、信号もあり、速度制限もできるので、相良橋のようでも特に問題ないわけです。一方、鉄道では、曲線半径をあまり小さくすると、遠心力の作用で脱線の危険性が生じます。したがって、昔から走行速度と曲線半径の関係を重視して線形を決めていますので、鉄道橋では斜橋が多いわけです。」

理にかなった説明であるが、明治時代には高速道路もなかった時代である。当時の明治政府や鉄道省には、斜橋にしたもっと別の思惑はなかったのだろうか。名にし負う急流の球磨川、斜橋であれば、急流の中に立つ橋脚も真横一直線ではなく、上下方向に分散配置され、流木の滞積(たいせき)も緩和されやすく、流れの抵抗も減るはずである。当時の設計者や施工者が、斜橋にした理由として、こんなことや自然景観を考慮したとすれば、その深遠(しんえん)な配慮に敬服せざるを得ない。

ちょっと寄り道、球泉洞駅で途中下車しよう!この近くに2億年前の化石や地層を見られる場所あるからである。球磨川第二橋梁の下流、球泉洞から吊り橋の手前まであたりが「槍倒しの瀬」と言われる急流の難所で、図7左に示すように、白い岩肌の混じった右岸となっている。この岸の河原には図7右に示すような大型の二枚貝の化石「メガロドン」という恐竜のような名前の化石である。これは約2億年前の中生代三畳紀後期に生息していた大型二枚貝の化石である。
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図7 球磨川槍倒しの瀬(左)と二枚貝の化石「メガロドン」(右)
球泉洞付近の地層は、四国の三宝山付近(高知県香南市)の岩石や化石と同様のものを産出することから、三宝山帯に属すと考えられている。石灰岩は海洋生物の貝殻、サンゴなどの生物遺体であるから、この地帯の地層は、元は海底にあり、プレートの移動によって運ばれ、隆起したものであることがわかる。先に、球磨村総合運動場に百万年前の古人吉湖底層の露頭があることを紹介した。しかしここは、それよりも古い地層で、この地方で、これほど古い時代の地層が身近に観察できる場所は他にない。球磨村総合運動場の古人吉湖底層の露頭を見学する機会には、ぜひ、二億年前の「メガドロン」を訪ねられることを勧めたい。

肥薩線には、球磨川第三橋梁、第四橋梁もある。第三橋梁は人吉駅を出て大畑駅に向かう途中で球磨川を渡るが、その鉄橋が図8左に示すような球磨川第三橋梁である。人吉駅をでると、位置的にはくま川鉄道の相良藩願成寺駅あたりから右に向きを変え、球磨川に直交した形で渡る。この橋は川に直交して架けられており「直橋」である。元の橋は水害で流出したようで、新しく1977年(昭和52年)に再架設されたものである。現在の肥薩線の人吉-吉松間の山越えルート(山線)は1909年(明治42年1)に完成しているので、ここの第三橋梁も、その頃には完成していて、球磨川第一や第二橋梁などと同じ形式(ピン結合方式切り詰め形のトラス橋)の橋梁だったはずである。ただ、斜橋だったのか直橋だったのか定かではないが地形的には、図8右に示すように余地があり、直橋は可能だったはずである。平成17年9月の台風14号のときの球磨川の増水は球磨川第三橋梁の橋桁を洗うほどの水量あったことが報じられている。そのことから推量すると、昭和46年と47年の人吉球磨地方の連続的大洪水では球磨川も氾濫していて、元の第三橋梁が流失であれば、橋脚に流木が滞積し、橋桁を流れが超すような事態での流失損壊であったと思われる。
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図8 球磨川第三橋梁とその架設場所

くま川鉄道、昔の湯前線と肥薩線は人吉球磨地方の人たちとって最も大切な足であった。球磨川第四橋梁は、そのくま川鉄道路線にある。川辺川が球磨川に合流する川幅の広い場所で、川村駅の約500メートル南東にあたる。橋の長さは322mの長大橋梁で、くま川鉄道を代表する土木構造物であり、登録有形文化財(建造物)になっている。この橋は、ほぼ直橋である。図9に球磨川第四橋梁
と架設場所を示した。この橋を撮影しに行ったおり、案内してくれた地元の人が、「真ん中まで行きまっしょ!」と言われるので「でも、通っちゃいかんとでしょう?」というと、「いや、めっちゃん通らんとじゃっでよかよか、、」といって鉄橋の上を歩かされることになった。真ん中ほどには避難場所になるようなステージが設けられていて、そこに立つと川なのに海の中に立っているような錯覚が起きたのを覚えている。これより先の湯前駅まで、球磨川橋梁はなく、くま川鉄道が球磨川を渡ることもない。
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図9 くま川鉄道の球磨川第四橋梁とその架設場所

<つづく:次回は肥薩線・山線の難所:矢岳越え>

杉下潤二 junji@siren.ocn.ne.jp

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