あさぎり町中部ふるさと会

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熊本県球磨郡あさぎり町出身者、及び あさぎり町と
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続 ふるさと探訪

2018年10月 8日

続 ふるさと探訪30 昔懐かしふるさとの味(17) 山野菜:ノビル・椎の実・桑の実

4.山野菜:のびる(野蒜)

 ノビルは、漢字で「野蒜」と書き、川の土手にも生えているニラのようなニオイのする植物である。「野蒜」の「蒜(ひる)」はユリ科の多年草のことで、その仲間は、ネギやニンニクそしてノビルなどである。このノビルも縄文時代の食用植物の一つであった。その後も食べられていたようで、8世紀初めに編纂された『古事記』の中に、応神天皇が詠まれた歌として次のようなものがある。

「いざ子ども 野蒜摘みに 蒜摘みに わが行く道の 香ぐはし 花橘は 上枝は 鳥居枯らし 下枝は 人取り枯らし 三つ栗の 中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子を いざささば 宜らしな」
 意味は、「さぁ、ノビルを摘みに行こう ノヒルを摘みに行こう わたしが進む道の香りの良いタチバナ 上の枝は鳥が止まって枯れた 下の枝は人が折り取って枯れた 真ん中の枝はつぼみが残っている そんなつぼみのような赤い少女を さぁ、妻としなさい」
 しかしもっと驚くことは、万葉集にノビルの調理法が載っている。これは平安時代中期、渡来系の異才な歌人とされ長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)という人が詠んだ歌である。
 原文は:「醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃煮物」であり、読みは、「醤酢(ひしはす)に蒜(ひる)搗(つ)きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)」である。意味は、「醤と酢に蒜を混ぜ合わせて鯛を食べたいと思っているのに、水葱(なぎ)の羹を私に見せるな」である。
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図14 ノビルとノビルの酢味噌和え

 ここに出てくる「羹」は「あつもの」と読み、魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物のことであり、「水葱」とは、水田などの水湿地に生え、一見、ホテイアオイ風の水田の雑草だった水草である。図14右端は、ノビルと、その食べ方の一つ、「酢味噌和え」の例である。

5.椎の実(しいのみ)

 昭和二桁生まれといっても、10年から64年まであるから、昭和二桁生まれは若いとも年寄りとも言えない。戦後の豊かな時代、昭和30年代以降の昭和二桁生まれの方には、そんな経験はないと思っていたら、その年代生まれの方で、大分県在住の羽石さんから、椎の実拾いをして、炒(い)っていたら、椎の実がはじけて顔に当たり泣きながら食べた日のことを語ってもらった。
 筆者にも、椎の実拾いは、恐怖の思い出として残っている。当時の湯前線の踏切を超えるための近道は、筆者の自宅から、旧岡原村の伊勢元地区を抜け、古多良木に至る道である。踏切を超えて、どれくらい行ったのか、そこが旧須恵村だったのか、はっきりした記憶にないが、そこは、うっそうとした森の中であった。
椎の木を探し、深く迷い込んだ森の中に小さな掘立て小屋があった。おそるおそる覗いてみると白髪頭のお婆さんが座っていたのである。椎の実どころではなく明るい方へ一目散に友と駈け逃げた思い出でがそれである。

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 図15 椎の木の葉と椎の実、椎の実を売る八幡起業祭会場の屋台

椎の木の葉と実を図15に示す。椎の木は、九州から本州にかけての照葉樹林の代表的構成種であるが、この木は、狂いが生じやすく、虫食いやすく、割れやすいので材質的な評価が決して高くない木材である。しかし、その実、椎の実は縄文時代からよく食べられていた痕跡がある。鹿児島市上竜尾町の南洲公園の一角にある縄文時代晩期の竪穴住居跡があり、そこから石斧(せきふ:いしおの)や石鏃(せきぞく:やじり)、猪の骨などと一緒に椎の実が出てきている。椎の実に限らず木の実は、古代人にとっては重要な食材であった。時代は下がって、飛鳥時代や奈良時代、そのころも椎の実が食材となっていたようで、万葉集には椎の実を詠んだ歌が三首抄録されている。その中の一つを紹介する。

 「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅(たび)にしあらば椎(しい)の葉に盛(も)る」 ・・・ 万葉集0142 
意味は、家にいたなら食器に盛って食べるご飯を、草を枕にする旅の途中にあるので椎の葉に盛って食べている、である。本稿の趣意ではないので詳述はさけるが、この有間皇子は18歳で謀反人として処刑されるから、この歌の「旅」は流罪地への旅路である。先の「肥薩線」の「真幸駅」の「真幸」は真の幸のほかに、運よくとか、幸いにとかの意味があるということで、有間皇子の次の歌を紹介した。「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む」、意味は、磐代の松の枝を結んだ、運よく無事に帰ることができたらまたこれを見よう、である。

 椎の実が子守歌に出てくる例を紹介しよう。島根県鹿足郡吉賀町柿木(しまねけん かのあしぐん よしかちょう かきのき)地区に伝わる子守歌、「ねんねんよ ころりんよ」である。その二番の歌詞に椎の葉が出てくる。

 ♪ねんねんよ ころりんよ
   おととの お山のお兎は なしてお耳が お長いの
    おかかの おなかに いたときに 椎(しい)の実 榧(かや)の実 
   食べたそに それで お耳が お長いぞ ねんねんよ ころりんよ♪

 怪談、耳なし芳一などで知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治20年頃、島根県隠岐の島の海士町を訪れたとき、この世で一番古い子守歌を聞くことができたと讃えたのがこの歌である。この島では、ウサギの耳が長い訳を「びわの葉やささの葉」を食べたからという歌詞になっている。ところが、島根県でも米子地方では、ウサギの耳の長いのは「びわの葉」を食べたからだとしている。椎の実もビワの葉も笹の葉も、みんな細長いのである。耳の長い訳を、お母さんがいろいろ思い起こしながら子供に歌い聞かせた状況が見えてくる。

 最後に、今でも椎の実を売る屋台が出るという話である、北九州市の八幡地区は、かの有名な八幡製鉄のあった町である。その創業を記念した祭り、「起業祭」が毎年、11月に行われる。その会場に図15の右端(出典:Nissy-KITAQ Wikipedia)のような椎の実を売る屋台が出る。炒った椎の実がショケ一杯、山盛りして店頭にでている。 


6.桑の実

 5月も半ばを過ぎる頃になると黒く熟した桑の実で唇や衣服を紫色に染めながら桑の実を食べた思い出ある人も少なくないだろう。旧深田村(現在、あさぎり町深田)に住んでおられたことのある御年81歳の方から、「・・私にとって桑の実は戦時中のことです・・」というメールをいただいた。筆者と同じ年齢、筆者と同じような桑の実の思い出である。桑の実は、誰でも知っていて、誰でも歌える「赤とんぼ:三木露風作詞、山田耕作作曲」にでてくる。

♪夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
    山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)に摘んだは まぼろし
     十五で姐やは 嫁に行き  お里のたよりも 絶えはてた
      夕焼小焼の 赤とんぼ  とまっているよ 竿の先♪

もっと古い歌、万葉集(巻七)に作者未詳として、桑の歌がある。
「たらちねの 母がそのなる 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを」

この意味は、願えば桑の葉も衣服になるように、恋も成就しないわけはない。後で述べるように、桑の木の皮も繊維になり織物となったようであるが、ここでは、桑の葉が衣服になるというのは、蚕(かいこ)が桑の葉を食べて糸を吐き、その糸を織って衣服となるという意味である。
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図16 桑の実(左)と桑の皮(右)   桑皮写真:学校園の石田紀佳さん

 桑には、養蚕のための葉の収穫を目的にした「ヤマグワ」と、桑の実の収穫を目的にした「西洋桑」があるそうであるが、こどもの頃に食べた桑の実は養蚕のために植えられていた桑の木であった。桑の実は甘酸っぱく、地方によっては桑酒や果実酒の原料となり、高い抗酸化作用で知られるアントシアニンをはじめポリフェノールを多く含んでいて健康にもいいとか言われている。
 
 さて、筆者の桑の実の思い出は、戦時中の小学校1年生(当時は国民学校)か終戦間際の2年生の頃の話である。戦時中は低学年であっても、勤労奉仕にかり出された。勤労奉仕というのは、正確には「学徒勤労動員」または「学徒動員」のことで、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、生徒や学生が農村や工場の生産に強制的に動員されたことである。期間は4〜5日で、9〜10歳以上の学徒がその対象であった。  
 筆者らの動員先は、村の養蚕農家で、厳しい戦況や労働力不足など9歳ぐらいの筆者らは知る由もなく、言われるままに桑の木の皮を剥いた。その剥いた皮は兵隊さんが使うものになるようなことを大人は言っていたような記憶だがさだかではない。そこで、草稿にあたり改めて調べてみると、ウィキペディアには、「桑の皮は、主として網索、テックス、紙原料等として使用されるが戦時中は落綿等の屑繊維と混紡して雑繊維糸の紡出又は家庭綿と称する代用衛生綿の製造に用いられた」とあった。ところが、和紙文化研究会会員である長瀬香織(ながせかおり)さんは、「中国手漉き紙の世界」の中で、中国西北部にある新疆(しんきょう)ウイグル自治区ホータンには「桑皮紙(そうひし)を作っている人があり、その製法を紹介されている。桑の皮で紙が昔から作られていて、今でも新疆ウイグル自治区ホータンでは、その製法が伝承されているとのことであった。筆者らが剥いた桑の皮はごわごわした織物になったのか、楮(コウゾ)や三椏(ミツマタ)のような和紙の原料だったのか分からない。前置きが長くなってしまったが、筆者が食べた桑の実は、この皮むき作業中の幹に鈴なりになっていた桑の実である。


「続 ふるさと探訪」をながらくご笑覧いただきありがとうございました。お気づきのことがありましたらご教示頂ければ幸いです。
 
杉下潤二  junji@siren.ocn.ne.jp

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